ときめいちゃったんだトゥナイト

日常の尊大なる冒険

襟元をたださせてくれるひと: 影山優佳卒業セレモニー

影山優佳卒業セレモニー

 

推しが卒業した。

日向坂46の影山優佳の卒業セレモニーが開催された。

2023年7月19日のことだ。

 

このセレモニーについてのレポみたいなものを書くわけではない。

それはきっと多くのひとが書いてくれることだろうから。

だから私が書くのは、それを見て、私がどんなことを考えたか、だ。

 

これは、私が卒業セレモニーを見るなかで、

なぜ彼女に魅了されてきたのかを再発見し、それを言語化していく話である。

だから、どうしても自己本位的な、自分中心な話が混じってしまうことをご容赦願いたい。

 


 

私は、「推し」が分からない、とたびたびぼやいてきた。

「推し活」なる消費形態についてもそうだが、

なにより、自分が誰を「推し」ているのか、ということが分からなかった。

 

無論、日向坂46というグループのなかでこのメンバーを応援しよう、と思う子はいる。

それをTwitterのbioにも書いている。

だが、一歩引いてみれば、どの子にも魅力があるように思えてくるし、

反対に、冷静になると、「所詮は他人だしな」とも思ってしまえる。

私はその点で、アイドルファンとしては「冷めた」パーソナリティの持ち主だ。

 

「日向坂で誰が好きなんですか?」「誰が推しなんですか?」

そう訊かれたら、でも、影山優佳の名を私は挙げただろう。

でも、上述のような「冷めた」私は、自分で自分にこう問うてしまうのだ。

どうして? どうしてその子じゃないといけないの?

べつにその子じゃなくてもいいのでは?

 

いきなりだが、アイドルを推すという行為には、疑似恋愛的な要素が多分に含まれる。

これについては、私が今さらここで改めて説明する必要もないだろう。

恋愛であれば、どういうところが好きか、と問われて言葉にすることはできても、どうして好きになったのか、と問われても答えに窮することだろう。

それはいつだって「なんか、自然と」とかになるはずだ。

そして、恋愛のアナロジーで考えるなら、アイドルを推すことも同じだ。

「だって出会ってしまったから」

それ以上の答えはないはずだ。

 

アイドルは探すものじゃなくて向こうからやってくるものだから

僕の場合はそれが「ももち」だったんだ

(「YOUは何しに日本へ?」2017年8月28日放送回より)

 

だから上述の、私が私に問う言葉が無粋なものであることは重々承知だ。

だが、その上でなお、自分に問うてしまうのだ。

でもさ、どうして影山優佳なの?

「あー、可愛い」

「えー、可愛い」

「あー、卒業しちゃうのか」

そんなことを思いながらも、私の脳の片隅には、その問いが居座っていた。

それは同時に、私の「好き」全般についての問いでもあったから。

 

セレモニーが終わったあと、私は柄にもなく放心状態になっていた。

ああ、良いセレモニーだった。

本当に、旅立ってしまったんだな。

そんなことを思った。

 

翌日、ときに余韻を噛み締めつつ、過ごしていた。

前日に感情が昂ったせいか、平熱なのにやたら頭が痛かった。

 

余韻を噛み締めるということは、またあの問いに出くわすということでもあった。

「どうして影山優佳だったの?」

可愛いから、というのは一つの答えだ。

でもそれでは部分点しかもらえない。

アイドルなんて、みんな可愛いからだ。

あの子も可愛いよね、あの子あそこが可愛いよね。

そんなことが、自慢じゃないが私はほとんどのメンバーについて言える。

では、彼女をそんななかでも「特別」にしていたのはなんだったのだろう?

 

その問いに、駅のホームを歩いているとき、一つの解が降りてきた。

これが完全な回答というつもりでもない。

でも、今の私にとっては、これが意味のある回答だと思った。

だからメモも兼ねて、ここに書き記しておこうと思った。

それは、あなたのここが好きだったんだよという表明にもなるから。

 

私は、彼女を見ていると、襟元をたださなくては、と思わされる。

彼女は賢い。可愛い。そのほか、褒め言葉を多く挙げることができる。

だから彼女は、「完璧だ」と思われる。

その評価の裏で、彼女は自身だから見える「完璧じゃなさ」に苦しんでいた。

それでも彼女は、そのパブリックイメージを守るべく、自分と格闘していた。

 

自分は、彼女の苦しむ姿を見たいサディストではない、と思っている。

それでもやはり、私は彼女の「苦しみ」にこそ「好き」を見出したのだと思う。

その姿は、自らを燃やす星のように思われた。

その「もがき」に、自分も頑張らねば、と襟元をただされた。

だから私は、彼女を「推し」たし、その幸せを願った。

 


 

だいぶ臭いことを言ったが、要するに私は、自分の襟元をたださせてくれるひとが好きなのだと思う。

「襟折れてるよ」と直してくれるひとではない。

そのような、「襟」という言葉の直喩(シミリ)で考えているのではない。

「襟元をただなくては」と自覚させてくれるひと。

自分を奮い立たせてくれるひと。

そんなひとがいることへの幸福を私は感じ、私は彼女を「応援したい」と思ったのだった。

 

アイドルの卒業イベントとは、一種の生前葬だと思う。

その場で、彼女は、詳述は紙幅が足りないため控えるが、あのような言葉を口にし、そしてメンバーから、あのような言葉を贈られた。

そのようなことを言えるほど、私は何かを成せているだろうか、あのように言葉を贈られるほど、私は「善きこと」をできているだろうか。

そんなことを、私は思った。

ただ卒業をお祝いするつもりだったのに、私はまた「襟元をたださ」れてしまった。

 

ああ、だから好きなんだよ——。

影山優佳は、最後もやっぱり影山優佳だった。

 

影山優佳さん、ご卒業おめでとうございます。

あなたのこれからの人生が、幸福で満ちることをお祈り申し上げます。

 


www.youtube.com

 

*: 画像は日向坂46公式ホームページより

好きでこんなことになってるんじゃない

俺だってこんなふうになったんじゃない。

俺だって、好き好んでこんなことをしているんじゃない。

そう言いたくなる瞬間は人生に溢れている。

 

いまの季節なら、炎天下を汗だくになりながら歩いているときとか。

初めて入った店で頼んだ料理が口に合わなかったときとか。

満員電車に乗っているときとか。

 

その一つの例が、おならがめっちゃ出るとき。

私はそんなとき「俺だって好き好んでこんなさ——」という気分になる。

 

 

おならのなにが悪いか。

まず、あまりにも体裁が悪い。

人前でこくわけにはいかない。

ただこれは、幸か不幸か一人暮らしなので、こける時間は多い。

家でこいても、誰にも文句は言われない。

 

次に悪いのは、臭いってことだ。

おならは臭い。

もう「お」「な」「ら」という言葉からただよう臭気がすごい。

しかしこれを「屁」と言い換えても、臭気はマシにならない。

排泄物になり損なったものの怨念みたいな臭いがする。

 

そしてもっと悪いのは、時に「実」を連れてくるってことだ。

おならは肛門から出たがっているようなのだが、なんだかそれだけじゃないような気配を感じるときがある。

そんなときは、いくらこき放題の状況でも、細心の注意を払う。

同時に「実」が、すなわち便が、ウンコが出るかもしれないからだ。

大人になって、ウンコを漏らすわけにはいかない。

 

 

俺だって、好き好んで、こんなぷーぷー鳴る楽器みたいになっているわけじゃない。

ただ、どうにもガスが出てくるから。

うぉん、俺は間欠泉だ——。

 

さて、これはなにも腸内環境が終わっているだけでなく——まあ終わってはいそうだが——、空気嚥下症という私の持病に由来する。

ストレスなどが原因で、唾液などと一緒に空気を多く飲み込んでしまう症状のことだ。

これにより胃腸にガスが溜まりやすくなる。

それは主に、腹部の膨張感や、ガスの頻度の放出をもたらす。

放屁と共に、げっぷも私を悩ませる現象である。

 

ストレスなどと書いたが、同情を買いたいわけじゃない。

言いたいことは、私が屁をこくとき、

「好きでこんなことになってるんじゃない」と思っているってことだ。

 

みなさんにも、そう思うことはあるんじゃないだろうか。

私は「好きでこんなことになってるんじゃない」。

ああ、人生はなぜこうもままらないのか!

 

ま、それでも続いていくのが人生なんですけどねー。