ときめいちゃったんだトゥナイト

日常の尊大なる冒険

"火"と和解するための物語: 「君たちはどう生きるか」感想

宮﨑駿監督によるスタジオジブリ作品「君たちはどう生きるか」は、興行収入の上で快調な滑り出しを見せている。

一方、その作品評価については「割れている」と言ってもよい。

 

映画レビューサイトで評価が「1」と「5」に二分されている画像が出回った。

その画像の真偽はここでは問わない。

大事なことは、その画像がある種の説得力を持ち得ていたということだ。

そうでないと、あのように大規模な拡散はされ得なかっただろうからだ。

そしてこれを受け、評価が二分されていることを皆が了解していることを前提とした記事も著されている。

diamond.jp

 

しかし、果たして本当にそのような評価が妥当なのだろうか。

ここでは、私なりの感想を——Filmarksには一度書いたのだが——改めて、膨らませて、書いていこうと思う。

記事中にはネタバレを含むため、それを嫌う方はここで離脱することを推奨する。

 


 

上記の記事では、絶賛派と酷評派の感想に共通する要素として、下記の三つを挙げている。

  1. 内容が難しい。あるいは理解不能
  2. 過去の宮﨑駿監督作品の要素をいくつも見つけた
  3. 観客をだいぶ突き放して制作されている

この部分は、これらをどう捉えるかで評価が変わるのだと読んでも問題ないだろう。

 

これらの三つの要素について、私なりの感想を番号ごとに付け加えたい。

(1) モティーフは多いけれど、理解できないことはない。むしろ構造だけ見ればとてもシンプルな話である。

(2) 同じ作家が作っているのだから、モティーフの反復はむしろ起こって当然である

(3) むしろ観客に寄り添いすぎているとすら感じた

このうち (2) については、創作に関する思想がそのまま感想に表れるだろう。

つまり、同じモティーフを使うことは自己模倣なので避けるべきである、と述べることもできるし、先述した私の感想のように、自己模倣は当然発生する、と述べることもできる。

ここはそのひとの哲学によるものであり、そしてそれ以上でもそれ以下でもないので、ここでは私の考えを、先述したように、述べるに留める。

以下、(1) と (3) について、詳述していく。

 

(1) 内容が難しい。あるいは理解不能

これについての私の感想は、上述の通り「そんなことはない」というものになる。

ただし、モティーフや語りにおいて混乱が見られることは認めざるを得ない。

 

例えば、《上昇/下降》ないし《上層/下層》について振り返ってみよう。

これは多くの物語において採用される二分法であるし、宮﨑駿作品においても度々採用されてきた。

風の谷のナウシカ』では、腐海の《下》に清浄な空気のある場が用意されていた。

『天空の城 ラピュタ』では、シータは最初、空から降ってくる。

 

君たちはどう生きるか』においてだが、アオサギを捕らえたのち、眞人は塔の床が溶けるような形で《下降》の運動を強制される。

そうした辿り着く「地獄」*1は、そもそも《下》のイメージを持つ単語だ。

そして、「地獄」の《》」性は、フワフワが誕生するために《上昇》していく運動が描かれることによってより強調される。

 

だから眞人がアオサギと旅立ったあとの旅程は、《昇る》行程となる。

しかし一方、ヒミと合流したあとは、産屋を目指すため再度眞人は《下降》を余儀なくされる。

また、産屋のシーンを経たあとは、再度「王様」にヒミを捧げようとするインコ一行を追うため《上昇》を目指すことになる。

つまり、《上昇》と《下降》が一方向でないのだ。

 

また、《火》のモティーフの扱いも一筋縄ではない。

それはまず冒頭で、母を焼き、奪う炎となる。

病院が大きな火炎に包まれるその光景は、現実世界において何度もフラッシュバックして表れ、眞人を苛む。

しかし、「地獄」巡りの冒頭で、それは水先案内人のような役割を担うキリコにより、ペリカンから眞人を救出するための火となる。

しかし、フワフワをペリカンから守るヒミの炎は、同時にフワフワも燃やしてしまう。

だがその後、眞人はヒミと旅程を共にするし、産屋で大量の紙——それは式神を思わせるし、白に覆われるさまは、ペリカンに襲われる眞人の反復であるだろう——に覆われる眞人を救うのもやはり炎である。

このように、炎は、死をもたらすものとしてと同時に、死に抗するものとして、つまり相反するような形で作品内に存在することになる。

 

このような混乱は、やはり物語の破綻を意味するのだろうか。

そうは考えない、というのが私の立場である。

「炎」については、少なくとも物語の展開上の論理的な帰結であるとも思う。

上述したように、私はこれをとてもシンプルな話だと捉えている。

そのことについて、以下、記述していく。

 

まず、この物語の構造はシンプルな《生きて帰し物語》だ。

つまり、この世でない場所に出かけ、帰ってくる物語。

その過程で、その旅を経験する人物=眞人には、変化が起きなければならない。

では、その変化とはなんなのだろうか。

それは、《新しい母》=ナツコを受容し、《火》と和解するということだ。

 

物語冒頭にて、眞人の母ヒサコは入院中の病院の火災で死去する。

一年後、眞人の父シュウイチは、ヒサコに「そっくり」のナツコと結婚し、ナツコの実家のある地方へと疎開する。

疎開先の駅までナツコは車に乗ってやってくる。シュウイチはバスにより工場へ行き、眞人はナツコとともにナツコの実家へと向かうことになる。

この時点で、ナツコはシュウイチとの子を妊娠している*2

しかし、眞人はこの新しい家族に対し、あまり歓迎する気持ちを持っていないことが彼の表情から示唆される。

 

眞人は、何度も実母ヒサコの夢を見る。

しかしその夢のなかで、ヒサコはいつも炎に包まれている。

その夢を見て、眞人は涙を流す。

また、シュウイチはナツコに、確かな性愛の感情を持って接している。

それは、二人が接吻する場面を眞人が階段上から覗き見ることで、眞人にも知られるところとなる。

 

ここでは、眞人の、ナツコに対するアンビバレンスな感情が描かれている。

もといそれは、実母に対する郷愁の感情でもある。

アオサギはそれを利用して眞人を煽り、眞人の内なる暴力性は——自らつけた側頭部の傷としても物語上描かれるが——アオサギに向けられる。

 

眞人は机の上に積み上げた本が倒れた拍子に、実母ヒサコの遺した本を発見する。

その本は吉野源三郎君たちはどう生きるか*3である。

本の初めのページには、ヒサコからの直筆のメッセージが書かれている。

その本を読み、眞人は涙を流す。

新しい母であるナツコがいなくなったと屋敷が騒ぎになるのは、その直後のことであった。

 

この時点で、眞人はヒサコに対する郷愁を強く抱いている。

それは、ナツコを探すため使用人のキリコと共に洋館に入ったあと、アオサギが用意した偽物のヒサコに触れてしまうことでも示される。

眞人はこのあと、上述した「地獄」巡りを始めることとなる。

 

では、新しい母の「受け入れ」はいつ訪れるのだろうか。

それは、ヒミとともに産屋を訪ねる場面において、である。

 

産屋は子宮のメタファー(暗喩)として読むことができる。

細い道を辿り、開けた空間に辿り着くとき、おおよそこのメタファーが適用されていると言っても良い。

例えば村上春樹神の子どもたちはみな踊る*4での、細い路地を抜けた先の野球場もそうである。

綿矢りさ『インストール』で朝子が座り込むゴミ捨て場もそうであろう。

そして、子宮のメタファーたる空間を訪れることでなされるのは、登場人物の「生まれ直し」である。

 

この産屋にて、眞人はナツコに、元の世界に戻るよう訴える。

しかし、式神のような紙が、回転しだし、眞人の身体にまとわりつく。

それでも眞人はナツコに手を伸ばし、「ナツコさん!」と名前を呼んだあと「母さん!」と口にする。

 

この場面で眞人の身体にまとわりつく《紙》について、ペリカンを彷彿とさせる、と前述した。

しかしここが子宮であるという前提に立つならば、それは精子のメタファーとも受け取れる。

そのためこれは、下の子ども*5の誕生という事実に苛まれている眞人を表しているとも読み取れる。

その《受難》を経てなお眞人は、ナツコを「母さん!」と呼ぶのである。

つまりこれは、ナツコを下の子どものみならず、自らの母としても認めるということだ。

ここにおいて、眞人はナツコすなわち《新しい母》を受容する。

 

次に、《火》と和解するという点について述べよう。

これは端的に言えば、実母ヒサコを殺した火を受け入れるということだ。

そしてそれは、火を操るヒミが実母ヒサコと重ね合わされる——そもそも彼女はヒサコの昔の姿なのだが——ことで、運命を受け入れるということにも通じてくる。

またこの点で、この作品は二人の母(女性)をそれぞれ受け止めるという構造になっているのだが、これについてはここで触れるに留める。

 

物語上、《火》は当初、死を運んでくるものとして描写される。

もちろん冒頭で描かれる、火災による実母の死は当然そうである。

《火》は戦火にも通じる。

サイパン陥落のニュースに言及されるように、作中の舞台となる時点において、太平洋戦争における日本の戦況は芳しくないことが示唆されている。

史実では、アメリカ軍はサイパン島を手に入れたことで、日本本土空襲を本格化させることになる。つまり、爆撃により街が「焼かれる」ことが待ち受けている。

塔の最上部で出会う大叔父も、眞人に対し、現実世界を「火に包まれることになる世界」と形容している。

また、現実世界において、ジブリ作品でしばしば人気のあるシーンとなってきた、美味しそうな料理ないしその調理シーンが出ないことも注目に値する。

 

しかし同時に、「地獄」巡り以降、《死》やそれに対比される「生」は、それのみとして描かれなくなる。

新しく生まれ変わるフワフワが飛ぶエネルギーのためには、キリコによる殺生と魚の解体が必要である。

また、フワフワを食べようとするペリカンを退治するためにヒミが放つ《火》は、ペリカンのみならずフワフワも焼いて=殺してしまう。

またペリカンも、老ペリカンの告白により、死をもたらすだけの悪党としてでなく、そうするほかない運命を担わされたものとしての側面が明らかにされる。

すなわち、ある種アンビバレンスなものとして描かれるようになる。

 

そしてそれは、《火》についても同様である。

ヒミがペリカンを退治する炎を操るように、《火》は死から眞人を守るものとしても機能し始める。

上述した産屋のシーンでも、眞人にまとわりつく紙を祓ったのはヒミの火であった。

 

《火》の受容すなわち《火》との和解は、三段階で実現される。

(a) 危険を顧みずヒミを助けに向かう

(b) 大叔父から積み木を受け取ることを拒否する

(c) ヒミが(やがて火によって死ぬ運命にある)現実世界に戻るのを見送る

 

(a)については、物語の展開そのものであるから省略する。

よって、(b)と(c)についてここでは述べることになる。

 

(b)は、ヒミを追って最上階に辿りつき、大叔父に会いに行くところである。

大叔父は、「13個の穢れていない石」を眞人に渡す。

そしてその石を三日ごとに積み上げ、「世界の均衡を保つ」役割を引き継いでほしい、と言う。

しかし、その役割を眞人は拒絶する。

その論拠は、自身が側頭部につけた傷である。

その傷を指し眞人は、「この傷は自分でつけました。僕の悪意の印です」と告げる。

その後、怒ったインコ大王が積み木を叩き切り、世界は崩壊を始める。

 

ここでは「均衡を保つ」世界と、《悪意のある世界》が対比されている。

後者は《猥雑で暴力に溢れた世界》と言い換えることもできよう。

そこでは、《火》は《死》をもたらすものとしてはっきり機能する。

それは、戦火がそうだし、病院の火災がそうである。

しかしそれでも眞人は、《猥雑で暴力に溢れた世界》を受け入れる。

 

側頭部の傷を負う直前、眞人は別の暴力や悪意にも晒されている。

それは、疎開先の小学校の生徒らによるイジメである。

そこに描かれているのは、都会から来たイケすかない坊主である眞人をやっかむ、農村の子どもらの姿だ。

この「都会から来たイケすかない坊主」であり、また眞人の家が金を持った富裕層であることは、父親の運転する自動車により学校に乗り付けるシーンで、カリカチュアライズされた形で描写されている。

だが、このイジメはなにも、だからこそ起こった特殊な事例ではない。

疎開先に都会の子が馴染めないというケースは、戦争期には散見されるケースであり、ここや、軍隊経験から、知識人らが「大衆」に対する嫌悪感も抱くことになるという流れについては、終戦直後を描いた書籍に詳しい*6

 

それでも眞人は、《猥雑で暴力に溢れた世界》を受け入れるのだ。

それは、受け入れた新しい母ナツコにいるべき世界でもあるし、またナツコへのアンビバレントな感情への悔恨もそこにはあるのかもしれない。

いずれにせよここでは、受け入れたという事実が何より大事である。

 

そして最後、(c)は、崩壊する世界から脱出する場面で発生する。

眞人らは、廊下に並ぶ無数の扉から《正しい扉》を選んで現実世界に戻ろうとする。

しかし、ヒミのための《正しい扉》は、眞人のそれとは異なっている。

それは、ヒミすなわちヒサコの少女時代と繋がっている。

すなわちその先には、火災による非業の死が待ち受けている。

 

(b)の段階で、眞人は《死》の存在する《猥雑で暴力に溢れた世界》を受け入れている。

また、ナツコを《新しい母》として受け入れてもいる。

しかし、実母ヒサコが死ぬという運命は受け入れられていない。

もっと言えば、その《死》を自らみすみす見逃すことはできないと考えている。

ヒミが実母の化身であり、若い頃の姿であることは、あらゆる状況証拠からすでに明らかであり、そのことを眞人ももう認めている。

だから眞人は、ヒミに自分たちの時代へ来るよう訴える。

 

その提案をヒミは拒否する。

そして「あなたのお母さんになりたい」と言う。

これは、どのような運命が待ち受けているとしても、あなたに会いたい、という強い愛のメッセージである。

この《愛》は、遺された本を読むという過程を通じて眞人の感じる《愛》と結びつけて考えることもできるだろう。

それを聞き、眞人はヒミと抱き合い、ヒミが自身の少女時代に戻る扉を通ることを受け入れる。

ここにおいて、《運命》との和解が成立する。

それは、やがて実母を焼くことになり、また《猥雑》なエネルギーを持つ《火》との和解でもある。

 

「シンプル」と述べたわりに長くなってしまったが、「君たちはどう生きるか」が描いているのは、このような話であった、と私は考えている。

もちろんこの論考において、切り捨てられたものが多いことは承知している。

例えば現実世界パートでのシュウイチの活躍については全く触れていない。

だがこれは、眞人が、この二つを《受け入れる》話としてのナラティブを受け取った私による「選別」の結果として受容していただければ幸いである。

この論考における至らぬ点の責などは、無論筆者である私に帰する。

 

(3) 観客をだいぶ突き放して制作されている

さて、(1)についての話が長くなってしまったが、こちらの話もあった。

君たちはどう生きるか」は、観客を突き放していただろうか。

上述のとおり、私はこれについて「観客に寄り添いすぎている」とすら感じた。

ではどのような点からそう感じたのか。

それをこれから述べていこうと思う。

なおここからは、今まで以上に印象論による話が多くなることをご容赦願いたい。

 

私の宮﨑駿作品のイメージだが、まずワクワクする絵というのがある。

トトロっていたらワクワクするよね!

空にお城があったらワクワクするよね!

その絵をベースに物語られてるというイメージがあった。

しかし今回は、そうでないように感じた。

 

もちろん、アニメーションとして見るべきところはある。

ここで言いたいのは、絵が退屈というのではない。

言いたいのは、今回は、絵の魅力より、メッセージが重要視されたのではないか、という感覚があった、ということだ。

 

私は映画を観ながら、そして観終わった後に、宮﨑駿から直接に語り掛けられたような印象を持った。

もちろんこれは自惚れとしてではなく、彼はスクリーンの前にいる全員に、しかしできるだけ一対一で語りかけようとしているように感じた。

だからこその強いメッセージ性であったと思った。

 

これを、宮﨑駿も年老いて説教くさくなったな、と断じるのは誤りだと思う。

しかし同時に、加齢が原因であることも一概には否定できない。

どういうことか。

宮﨑駿は、監督作品において、全カットに彼自身の手が入るという体制での制作が行われてきた。

だが『君たちはどう生きるか』の製作において、宮﨑駿は絵コンテの制作に専念し、絵の方は作画監督に一任するという体制が取られたのだ。

www3.nhk.or.jp

 

私は、これが、メッセージが前景化したという今回の印象に寄与しているのではないか、と考えている。

そしてこれは、明言こそされていないが、宮﨑駿の老化と無関係ではないだろう。

 

さて、問題は、このメッセージの前景化および制作体制がいわば「普通」になったことが作品に与える影響である。

私はこれを、あまり良しとは受け取らなかった。

私は、もっとおかしくていい、もっとおかしな、老作家がいよいよ耄碌したと評せてしまうような、奇天烈な作品をどこか望んでいたところがあった。

であるから、こう順当な作品が来たことは、半ば「期待はずれ」でもあった。

 

しかし、無論、この動きを歓迎する人もいるだろう。

老作家が最後の作品としてこれを世に打ちだし、自分たちに語り掛けてくれる感覚。

それはたしかに、心を大きく打つ要素になりうる。

 

私に子どもはいないし、付き合いの深い親戚の子どももいない。

だが、例えば私に思春期を迎える直前の12歳ぐらいの子どもがいたとする。

あるいは、そのような年齢の子育てを一度経ていたとする。

そうした場合、この作品を見たら、めちゃくちゃ感動していたのではないか、という予感がするのだ。

その程度には、『君たちはどう生きるか』は、真摯な作品であった、というのが私の評価である。

 


 

以上が、私の『君たちはどう生きるか』の感想である。

あるいはこれを「考察」と呼んでもよいのかもしれない。

 

宮﨑駿は、「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」と語っていたという。

しかしそれは当然なのだ。

120分を超える長編には、監督の手を離れ跳躍を生む、監督にも「分からない」シーンが紛れ込むものだし、従来のやり方を踏襲しなかった今回において、宮﨑駿のなかにその感情が生ずるのは当たり前であろう。

 

私の「評」は、仔細に語ろうとすると上述のように長くなるが、短く言えば、これもまた極めてシンプルなものだ。

「難しく考える必要はない」

「興味があれば見ればいいし、分からないかもとか臆する必要もない」

そもそも、作品には作者の考える正解があり、それのみが正しいという考えが、誤っていると言っても過言ではないのだから*7

 

君たちはどう生きるか

眞人がどのように生きるかは示された。

それを受け取るように私たちは語り掛けられた。

しかし、私たちは命令をされるわけではない。

そこから「どう生きるか」の問いに向き合うのは、私たちの仕事である。

 

私たちはどう生きるか。

この問いは、まだ大きく開かれたまま残されている。

 

*1:作中でそう言及されていた記憶があるため、こう表記する。Wikipediaでは「下の世界」と記載されている。

*2:妊娠はその後の誕生を想像させるが、同時にこの場面で、戦争へ出征する男子=死のイメージが描かれていることも、触れても良いだろう。また直後、サイパンが陥落したことにシュウイチが言及する。つまり日本軍にとって戦況は芳しくない。

*3:実在する同名の児童書

*4:神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)所収

*5:ラストシーンで弟であったことが明らかになるが、初めのシーンでナツコは「眞人さんの弟か妹よ」と述べており、性別を断定していない。

*6:小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)の第一部でも、丸山眞男らが同様の葛藤を吐露する文章が引用されている。

*7:尤も、明らかに誤読をしてミスリードを促すような行為な、倫理的と呼べないとも思っているが。